書評:『ゲノム編集とは何か』

『ゲノム編集とは何か』
小林雅一(著) 2016年

 2017年現在、世界で巨額の投資が新技術に対して行われている分野をジャンル不問で挙げるとすれば、AI、自動車の自動運転、ブロックチェーンなどと並んでゲノム編集技術を外すことはできない。これだけの投資マネーが流入しているということは、ゲノム編集技術が実用レベルに達すると期待されているまでの期間が短く、また実用化のあかつきには市場が巨大であることを示している。本書は2012年に登場したクリスパー・キャス9 (CRISPR-Cas9)または略して単にクリスパーと呼ばれるゲノム編集技術について、歴史的背景、技術の仕組み、応用までカバーした一般読者向け解説書である。

 クリスパーとは、遺伝子操作技術のレベルを大幅に引き上げる全く新しい手法である。しかし遺伝子操作技術は高いレベルですでに完成されているのではないか、という世間的な誤解があるため、著者はかなりのページ数を従来の遺伝子操作技術の解説に費やして、クリスパーが画期的である理由を明らかにしている(第3章)。

 1970年代に始まる従来の遺伝子組み換えは、ターゲットとなるDNAに対して、他の(遺伝子を含む)DNAから切り出された断片を導入するというものである。この際、切り出されるDNA断片は既存の生物のDNAであり、制限酵素を使って多くの段階を踏んでもなお、狙いの場所を自由に切り出せないという制約がある。さらにターゲットとなるDNAに他生物由来のDNA断片を挿入する際にも、制限酵素の使用、遺伝子導入、相同組み換え、伝統的な交配作業といった時間と多くの段階を要する作業を組み合わせないといけない。つまり簡単に言えば、思い通りにDNAを切り貼りすることはできず、また遺伝子組み換えの作業全体では、ケースバイケースで個別に設計された複雑で手間がかかる手順を踏まないといけないのが、遺伝子組み換えという技術の現実だったのである。

 クリスパーは積年の課題だった上記の難点を二つとも解決できるのが画期的である。すなわち、ターゲットとなる遺伝子をほぼ自由自在に塩基レベルで切り貼りでき、かつその作業工数が著しく短縮できる(=コストと作業時間が劇的に圧縮できる)という意味で夢の技術革新なのである。こうして従来技術との差異がいったん理解できてしまえば、応用面でクリスパーによって何が可能になるかも見えてくる。

 まず農畜産物の改良という分野が真っ先にあげられる。従来の遺伝子組み換え技術は、バクテリア、植物、動物の遺伝子を、目的とする他の植物や動物に導入するのに使われてきた。これにより害虫や農薬に強い農作物、大きく育つ魚などが開発されているが、食べたときの人体への悪影響、生態系への影響は未知なところが大きい。今までは遺伝子組み換え技術に制約があるために真剣な議論にならなかった面もあるが、今後は人類全体にとっての大議論に発展する可能性が高い。問題の大きさとしては、外来種による生態系破壊の比ではないのである。

 また遺伝子工学の医療への応用も大きな転機を迎えることになる。医療行為と人体を人工的に「デザイン」することの境界線が、本格的に溶け出しているのである。プロジェリア症候群やハンチントン病など重篤な症状を引き起こす遺伝性疾患を、発現前に受精卵やヒト胚の段階で予防的に治療するのに異論を唱える人は多くないだろう。ちょっとした外傷や内出血でも死の危険にさらされる血友病の治療も同様である。しかし即、死に至るわけではないが過度の肥満や高血圧により通常より寿命が短いと予想される遺伝病の胎児は治療すべきなのか。知能に若干の障害を抱えると分かっている胎児は治療の対象としていいのか。健康と病気の境目、また健康でいるための遺伝要因と自己責任に帰すべき生活習慣の境目は、実はかなり曖昧である。同様の問題は日本でも1980年代後半から90年代にかけて絨毛採取、母体血清マーカー検査などの出生前遺伝子診断や不妊治療の普及とともに激しい議論を巻き起こした経緯がある。日本生命倫理学会が設立されたのもこの頃である。クリスパーにより対処できる遺伝子治療の範囲が技術的に大きく広がれば、私たち自身が倫理的な線引きをすることから逃げられなくなる。

 さらに医療から踏み出し、生まれてくる赤ちゃんを「優秀」になるようデザインすることも技術的には現実味を帯びてきている。明らかな優生学の思想そのものであるから、すべて禁止すればよいという意見もあるだろう。しかしアトピー性皮膚炎に苦しませたくない、視力が低い生活を送らせたくないという親の願いは当然のことでもある。体細胞だけでなく生殖細胞へのゲノム編集をいったん認めてしまえば、「風邪になりにくい子が欲しい」「背の高い子が欲しい」「高いIQを持つ子が欲しい」という地点までの道はなだらかにつながっているのである。

 クリスパーは技術的になお幾つかクリアすべき点があることも確かで、特に遺伝子の狙った場所を切ったり貼ったりする精度に若干の懸念があるといわれている(オフ・ターゲット効果)。2017年現在でもこの問題への対策が盛んに研究されているが、研究者達の見通しは決して悲観的ではないように見える。グーグルやアマゾンといったIT企業、デュポンやバイエル、ノバルティス、モンサントといった製薬・バイオ企業が大挙して参入していることからも、当面ニュースには事欠かないはずである。本書は高校生物レベルの知識があれば十分読め、ゲノム編集技術に対するリテラシーを確実に引き上げてくれる一冊である。何しろ新しい技術であるから、大学または大学院以上のレベルの分子生物学を学んだ読者であれば、本書を足がかりにしてより専門的な論文や専門誌に進んでもよいだろう。