書評:『ヒトラー演説』

『ヒトラー演説』
高田博行(著) 2014年

 アドルフ・ヒトラーの映像や録音はまとまった数が残されているせいもあって、テレビ番組などで見たことがないという人はほとんど居ないだろう。この稀代の大衆扇動政治家が、特徴的な演説を最大の武器としていたこともまた周知のことである。ではヒトラーはいつ、何を、どのような手法で演説していたのだろうか。

 「ヒトラー演説150万語データ」は、ヒトラーが宣伝弁士としてミュンヘンのビアホールで演説デビューを果たした1919年の翌年である1920年から自裁した1945年までの演説のうち、全558演説をコンピュータで読めるよう、ドイツ語学者である著者が独自にデータベース化したものである。このヒトラー演説データベースを中心として、歴史的な背景解説を補足しながらヒトラー演説の変遷を分析したのが本書である。

 著者はヒトラー演説を分析するにあたって、ナチ党結党から同党が国会に進出するまでの1920年8月~1930年3月を「ナチ運動前期」、ゲッベルスがナチ党の全国宣伝指導者に就任したのち国会で躍進し、同党が政権を奪取するまでの1930年5月~1933年1月を「ナチ運動後期」と区分した。さらにヒトラーが首相となり第二次世界大戦開戦までの1933年2月~1939年8月を「ナチ政権前期」、戦争突入から敗戦までの1939年9月~1945年1月を「ナチ政権後期」とした。四半世紀を都合4区分としたわけだが、その根拠は演説する内容と聴衆、そして演説を伝えるメディアの種類が各期間ごとに大きく異なる点にある。

 弁論術において雄弁で説得力のある演説に必須とされる五要素とは話題の「発見」、演説の「配列」「修辞」「記憶」「実演」である。具体的な演説事例の分析から明らかにされるように、演説者としてのヒトラーは1925年末までにはすでに完成された技術を身に付けていた。ただ直感と実践に頼るのではなく、1924年の入獄中に「わが闘争」を書き上げる中で、誰に何を、どのように演説するかという理論は深化していた。初め肉声が届く範囲でのみ演説していたヒトラーは、やがてマイクとラウドスピーカーという新技術による拡声装置を手に入れて、数万人規模の聴衆を前に語れるようになる。政権奪取前のこのナチ運動後期が、ヒトラーと聴衆が相互作用しながら熱狂的な一体感を作り出すことに成功した「扇動者・ヒトラー」の絶頂期であると著者は指摘する。

 ヒトラー独裁が始まった1933年以降は、念願だったラジオというメディアを手に入れ、総統の声はドイツ全国民に届くことになった。しかし皮肉なことに聴取を義務化されたラジオ、映画による演説はすでに国民に飽きられており、その後かつてのような強い共感を聴き手に生み出すことはなかったのである。

 プラハに亡命した社会民主党指導部が国内の協力者を得てドイツの実情を外国に配信した「ドイツ通信」、およびナチ党親衛隊保安部が各地の国内情報を秘密裏に収集した「世情調査」の記録が現存しており、ナチ政権下におけるヒトラー演説のそれぞれが国民にどのような反応を引き起こしたかを克明に伝えてくれる。特に開戦が近づく頃から人々は政権に懐疑的になっており、ラジオやニュース映画が国民に陶酔を与えた事実は見当たらない。厳しい現実を生きている市民は、ナチ党の主たる支持者であった労働者階級でさえもこの時期すでに醒めていたのである。ヒトラーの魔法は、現実に打ちひしがれた聴衆に対して、自己没入感を与える共同体幻想を演説の場に作り上げることができることに懸かっていた。マスメディアによるプロパガンダ、国民の統制に際しては生きた演説の秘術は作用せず、この領域はむしろゲッベルスの独壇場だったということができる。

 ではヒトラーの演説が存分に機能したナチ運動前・後期において、第一次世界大戦では単なる一兵士だった男の演説にあれほど聴衆が熱狂した特殊な要因は何だったのだろうか。残念ながら本書でその説明が尽くされているとは言えないように私は思う。確かに送り手としてヒトラーの語った言葉、声のトーンやしゃべり方、身振りについての示唆に富む分析は示されている。しかしこの時期の大衆になぜ受け入れられ浸透したのか、受け手側の分析については、一般的な歴史叙述に留まっているのが原因である。

 当時ワイマール共和国において主流だった言論、大衆が感じていた政治の欺瞞や閉塞感について、ヒトラー出現の文脈で掘り下げてゆくことが必要だと思う。あるいは言語学者の立場であれば、ヒトラー演説以外の言論、報道をデータベース化して分析するようなアプローチも現在では可能かもしれない。
 
 とはいえ、コンパクトな新書でヒトラー演説の移り変わりを知ることが出来る良書である。また読後に本書で示された技法の数々を現代の政治家による演説に当てはめてみると、意識的にこの「偉大なる教師」をなぞっている一群が居ることに気付くだろう。その政治家たちというのは、ファシスト的と印象論のみで週刊誌等に叩かれている面々とは異なっているように私には思われる。