書評:『イブン=ハルドゥーン』

『イブン=ハルドゥーン』
森本公誠(著) 2011年

 イブン・ハルドゥーンは14世紀、ハフス朝のチュニス(現在のチュニジアの首都)に生まれ北アフリカ、南スペインそしてエジプトにまたがるイスラーム世界に生きた。人類の歴史学を語る上で外せない巨人であり、イスラーム世界だけでなく19世紀以降は西洋世界においても、偉大な歴史家、思想家として比類なき存在と評価されている。

 本書はイブン・ハルドゥーンの主著である『歴史序説』の抄訳を中心として、その思想の概要、戦乱に翻弄された生涯の足取り、後代に与えた影響を解説した構成となっており、合わせてこの人物の輪郭線が浮かび上がるように企図されている。原本は1980年の出版であるが、イブン・ハルドゥーンを日本語で知りたい読者にとって間違いなく、最初に手に取るべき現役の一冊であろう。

 14世紀のイベリア半島では、イスラーム教徒はキリスト教徒の反攻に敗退しつつあり、ナスル朝にわずかに残されたのはアンダルシア南部地方のみと、すでに明らかな衰退を示していた。またマグリブ地方(リビアから西サハラに至る北アフリカ北西部)は、統一王朝であったムワッヒド朝が滅亡・分裂した後、ハフス朝、マリーン朝、ザイヤーン朝、キリスト教徒が入り乱れて領土を奪い合っていた。さらに各王朝内でも王族が支配権を巡って争い、支配者が次々に変わる戦国時代であった。

 イブン・ハルドゥーンは若年の頃から自他共に認める俊才であり政治家としての頂点を目指して権力の中枢に到達するも、絶え間ない戦乱と宮廷内で繰り広げられる政治・陰謀の中で理想の治世を実現することはできず、やがて王権から距離を置こうとしてゆくのである。しかし学問に没頭しようとしてもその声望から、繰り返しスルタンや権力者から政治の場に呼び戻され、遂に長く安住する地を持たないまま、最期はカイロでこの世を去る。

 周りを取り囲んだ権力者や学者たちとの会話、次々に移り住んだ国で目にした政治の裏側や経済、自然、そして興亡を繰り返す王朝と各地で荒廃しつつあるイスラーム文明を目撃したことが、イブン・ハルドゥーンの歴史観、人間社会観に厳しい客観性を課すことになったといえる。

 「歴史序説」が目指したのは、人間が形作る社会集団の働きを解明し、文明と王朝の生起・衰亡を説明することだった。またこのとき社会の動きを知らせてくれるものこそは歴史である。ゆえに歴史を分析するにあたり史料を無批判に並べたのでは意味が無い。時代によって変化する人間社会(社会的結合)の構造の正しい理解に基づいて、単なる噂話や恣意的で誤った記録を排した実証的な歴史的報告を作らなければならないとしたのである。

 イブン・ハルドゥーンの思想の特徴は、「文明を分析する際の結論を宗教教義から演繹していないこと」だと私は思う。もちろん神やコーラン、イスラーム法への全幅の信頼が基礎にあるのだが、それは「ゆえに・・・すべきである」という強権的な教条主義の形で現れず、あくまで実証的な態度なのである。またカリフ制のもとで施行されるイスラーム法、すなわちシャリーアが民衆の利害、支配者の利害をうまく調整し、政治倫理規範として最も優れていると主張するときにも、それ以外の支配の形が現実にあることを決して無視していない。

 元からそうなっているから、としか説明できないような人間の性質としてイブン・ハルドゥーンがおいている前提は、シンプルかつ根源的で、宗教によらないものばかりである。「人間は生物として弱いので集まって社会を作り協力し合わなければ食物を得て生きられない」、また「人間は動物と同様に競争して力で相手を屈服させようとする性質があるので仲裁者を必要とする」というような地点からスタートして、論を進めてゆく。

 ここで王権の分析、都市や田舎など住環境による社会への影響の分析、王朝と文明の興亡の分析などにおいて重要概念となるのが「連帯意識(アサビーヤ)」である。といっても連帯意識は難解な概念ではない。ある集団が社会的結合を持つとき、その集団の連帯意識は構成員の種類(通常は血族関係にあるものが最も強い連帯意識を持つ)、構成員の数、紐帯の種類(本能的な血のつながりか、忠誠心によるものか、現世的な利害関係のつながりか、…)、紐帯の強さなどによって特徴付けられる。歴史を転がす原動力となる社会の変化は、その社会を構成している複数集団の連帯意識が成長・衰退・変容するダイナミクスとして捉えられる、というのがイブン・ハルドゥーンが発見した歴史学、文明学の重要な方法だったのである。

 イブン・ハルドゥーンは死に先立つこと5年前、中央アジアに一代で大帝国を築いたティムールとダマスカスの戦場で会い、やがて幕営で親しく話す機会を得ている。彼がマリーン朝のスルタンに書き送ったティムール評は「きわめて知的で明敏であり、知っていることについても知らないことについても、研究心が旺盛でよく議論をするのであります」というものであったという。東西イスラーム世界に屹立した二人の偉人の邂逅が、世界史に見るべき果実をもたらさなかったのは残念至極であった。お互いの晩節につかの間交錯した記録が残るのみである。