書評:『夷齋筆談』

『夷齋筆談』
石川淳(著) 1978年

 私が石川淳に初めて接したのは何がきっかけだったのか、確か大学生の時分に読んだ澁澤龍彦の作家論だったと思うが、今となっては定かでない。石川淳の「森鷗外」を読んで鷗外が「澁江抽齋」などという史伝を書いていることを知った記憶はあるのだが。

 さて本書は昭和25年から26年にかけて発表された戦後の随筆集である。私の手元にあるのは冨山房から再版されたものだが、原本の1952年初出以降、他の出版社からも何回か出ている。

 昭和の碩学夷齋先生と言われただけあって古今東西和洋中と自在に話題は飛んでゆく。「面貌について」「娯樂について」「沈默について」「戀愛について」「權力について」「風景について」「技術について」「惡運について」「仕事について」の9編が収められているが、それぞれに風合いは全く違っている。「面貌について」はあちこちで引用されて、こればかりは有名になっているようだが、他の各編にも著者の全く別の顔が現れていて趣向に富む。

 小説を語るときの先生、終始大変ご立腹の様子である。私小説(日本化されるときに貧乏臭く変容した自然主義文学)を斬ること快刀乱麻を断つが如し。さらに「散文による文学は世界にある『実在の人間の姿』を造型するものだ」というのは大いなる錯覚であると断ずる。現代においてはこのような散文論にもはやさしたる意義はないが、日本の私小説がしみったれているというのには私も賛成だ。

美はことばのはたらきにあつて、人間像の近似値には無い。美の關係の上なんぞには、じつに何の藝術的意味も無い。實在の人間といふ觀念は、ことばのはたらきに於てはじめて固定されて來るものである。逆にそれ以前に固定されたかと見える觀念は、すべて形而上學が恣意に設定したにせの觀念である。

 しかしこのテーマは池大雅、田能村竹田らを引いて南画の精神を論じる際にも繰り返されるのである。

自然のなかをさがしまわつて、やつとつかまへた山水は、もつて浮生を託すべきの地である。當人の氣に入つたやうに表現するほかない。萬里の路、てくてくあるく所以である。胸中の山水、實在の山水といづれが人生の眞實か。

 本物の自然、本物の風景などというのは後付けの偽概念にすぎない。文人画で色と線に還元できないもの、著者の達眼はそこに芸術と生活との可能性を見る。

 「權力について」では一転してその論は明晰一貫し、さらさらと頭に入ってくるのだ。韓非子の法術、そして勢についてこれほどに簡勁的確にその真髄を示したものを他に知らない。

 徳富蘇峰は内容の深さ厳しさと文章の格において、韓非子をマキャヴェッリの上位に置いたが、石川淳によれば韓非子の説く権力の道は、個人の精神そして文明と原理的に相容れ無いことを自ら認識している点で冷え冷えとして徹底している。権力と個の精神をなるだけ両立したいが現実にはできないから妥協して法術という権力「操作」をしているのではなく、はじめから交わることが無い全くの別世界だと峻拒しているというのだ。ここでは孔孟の倫理も、汚い治世術としての法術勢の上に君臨してはいない。「・・・政治とは切つても切れない仲の孔門の道德は、後世の法術の規定の下に見るかげもなく零落、いやかくあるべきその赤裸のすがたをあらはしてゐるのかも知れない」のである。

 それにしても韓非子に発して、著者の権力に向ける眼光は怜悧である。

原子爆彈は、それが權力の手にわたつたときには、その世界觀上の意味をうしなつて、單に一箇の殺戮の利器となる。
・・・
精神は原子爆彈と干將莫邪とがいかにちがふかといふことの世界觀上の意味を知ってゐる。

晉文公がみづから發行した名をみづから信じてゐたかどうか知らない。ただ韓非そのひとは必ずやいかなる名をも信ずることはしなかつたにちがひない。といふのは、その著眼のあとがあやまたず形に於て徹底してゐるからである。
・・・
たとへば、いくさがおこると發行されるさまざまの理念かなにかの名まへをおもひ出してみればよい。しかるに、權力の迷蒙はこの名の中に形よりも高次の内容があると自己暗示的に錯覺するところからはじまる。權力は人間を信じないとおなじ頑冥をもって、逆に名を信ずる。

 注意しなければならないのは、権力ー精神という対立は、国家ー民衆という対立とは別種のものと考えなければならないということだ。労働争議であろうが社会主義革命であろうが、たとえ革命家の善意がそこにあり民衆のためであっても、思想の符号が違ったというだけで権力の本質は簡単に変化しない。この著者の言を裏付ける例を、現代の私たちは嫌というほど指折ることができる。 

 文芸の世界で間食するにもふわふわとしたケーキや甘いチョコレートでなく、硬くて顎に応えるものが食べたい、そんな風狂の徒に本書をおすすめしたい。私は「面貌について」「權力について」「風景について」「技術について」を特に面白く読んだ。