書評:『スパイス物語』

『スパイス物語』
井上宏生(著)2002年

 本書の出版年は2002年で、著者が本書を執筆した理由のひとつは飽くなき美食への欲求を隠そうともしない日本人の姿だったという。貧困地域が報道される傍らでは大食を競う番組が人気を集め、高級グルメにB級グルメ、ラーメン屋めぐりと、食に対する豊かさの追求はとどまることがない。

 今や美食の都として世界屈指の地位を確立した東京だが、その契機となったのが1989~1990年を狂騒の頂点とするバブル景気時代にあったというのは衆目の一致するところである。フランス料理、中華料理、イタリア料理を筆頭に各国の本格レストランが次々にオープンして本場の味を一般に伝え、気軽になった海外旅行で本物の味を知る食通の客にも鍛えられて、互いに成長するサイクルが出来上がった。この流れでスーパーに並ぶ輸入食材、スパイスの種類も格段に増えた。今や高級スーパーやインターネット通販も活用すれば、世界の代表的なスパイスやハーブを一通りそろえることも簡単になったのだ。バブルが遺した数少ないポジティブな文化といえる。

 私も料理好きが昂じてスパイスやハーブは自宅にある程度揃えているのだが、やはり歴史的な背景が気になってくる。そこでスパイスをめぐる通史にあたりたいと思い、手頃な分量にまとまっている本書を手に取った。著者はノンフィクション作家で専門の研究者ではないが、巻末に挙げられた豊富な参考文献からも分かるように労作で、古代文明の時代から現代まで、幅広く知識を得ることができる。

 まず扱うのは古代エジプト文明、古代メソポタミア文明、古代ギリシャから古代ローマにいたる、地中海ー紅海ーペルシャ湾にまたがる古代スパイス史である。これに若干の古代中国文明の記述が加わる。次に、主要なスパイス・ハーブのふるさとであるインドおよび東南アジアの古代スパイス史が続く。これらの章は、植物としての解説や栽培地移動の歴史が興味深い。胡麻がアフリカのサバンナ原産などということは全く知られていないのではないか。歴史的な記述としては、紀元前後までということもあり、スパイス・ハーブが古文書に現れる部分を総花的に並べたようにも感じられる。その結果、教科書を暗記しているような気分になるのはマイナスだが、興味があるところだけ拾い読みすればよいと思う。

 本書でもっとも記述が厚く、またドラマティックな物語が展開されるのは13世紀にマルコ・ポーロが中国、インド、東南アジア、中央アジアを旅して著わした「東方見聞録」により西欧世界がオリエントへの欲望をかきたてられ、大航海時代を経て、オランダがモルッカ諸島の支配を固める17世紀までのことである。

 数あるスパイスの中でも胡椒は、国家や権力者の欲望の的として歴史の主役となった。熱帯性の植物なので西欧諸国ではとれないこと、最高値のスパイスではないがかなり高価であったこと、保存性が良いこと、そして何より食用として人々が熱烈に欲しがったことで需要が増し、血で血を洗う国家的戦争の争奪対象になったのである。

 インド、モルッカ諸島を舞台としてスパイスを奪い合う侵略合戦は、名誉も何もなくひたすら金銭欲のために行われ、苛烈を極めた。この過程で地域の軍事的情勢は不安定化し、支配者は次々に代わって行った。ポルトガルがこのエリアに先着してスペインを退け、いったん拠点を築くも、宮廷に植民地を経営する才がなく投資を怠ったため、あっという間にオランダに敗れて追い出されてしまう。ポルトガルに代わって力を増してきた英国とオランダの角逐はオランダの勝利に終わったかに見えたが、18世紀終わりにはまた英国の逆襲が始まる。モルッカ諸島の一角を奪取し、貴重なクローブ、ナツメグの苗木を持ち出し、自らの支配下にあるペナン島に植樹してしまうのだ。同じ頃フランスがナツメグをモルッカ諸島から持ち出すなど、高価なスパイスが全世界に拡散して低価格化が始まる。こうして戦略物資としてのスパイスの時代は終わっていった。

 マラッカ海峡、モルッカ諸島の支配権を巡る国家間の争いはそのまま、日本史の中で西欧への窓となる国が代わっていったことにも連動している。ポルトガル人が戦国時代に鉄砲を伝え豊臣秀吉に追放された後に、江戸幕府が鎖国中の貿易の対手として選んだのはオランダ人であった。そして時間をかけてインド・アジア地域でのオランダの利権を侵食していった英国人が、中国大陸に巨大な軍事力とともに現れて幕末の日本人に脅威を与えるのである。

 本書ではスパイス・ハーブを議論の軸としているため、戦争も貿易も全てがスパイスのためと錯覚しそうになるが、奴隷、金、銀、織物、工芸品などスパイスに負けず劣らず重要な交易品が同時に動いていたことをもちろん忘れてはいけないだろう。スパイス史の大枠をつかんだら、後は各時代のより詳しい歴史書に進めばより多角的に時代を理解できるに違いない。その道案内として便利な一冊である。