書評:『俺の喉は一声千両』

岡本 和明 新潮社 2014年6月30日

『俺の喉は一声千両』
岡本和明(著) 2014年

 実のところ私は浪花節(のちの浪曲)の実演に接したことはなく、録音をいくつか聞いたことがある程度だ。かの宮崎滔天が浪花節語りとして一時活動していたということから、その師匠であった桃中軒雲右衛門に興味が出て本書を手に取ったのである。雲右衛門の曾孫が著した伝記読み物と銘打たれているが、評伝としての筆致、人物の内面彫琢の出来は正直に言って少々苦しいものがある。それでもここで取り上げるのは、短命だった雲右衛門が明治の芸能界で放った輝きが余りにもまぶしく魅力的なのに、その姿を伝える書物が他にほとんどないからだ。

 寄席といえばまずは落語、といえる現在の姿からは想像するのが難しいが、浪花節は明治末にかけて人気で落語や講談を上回り、最初の黄金時代を迎えている。明治39年時点で東京の寄席135軒のうち80軒が浪花節の定席となり、明治40年には浪曲師はなんと448人、これに対して落語家190人、講釈師120人であったという。

 しかしここに至るまでの歴史は意外に浅い。浪花節は大道芸・門付芸が集合して、当時東京三大貧民窟に数えられた芝新網町で生まれた新興の芸で、東京で浪花節組合の鑑札が下りたのが明治5年である。その頃の主戦場は通称「ヒラキ」、早い話が盛り場の野天、葦簀掛けの小屋といったいかがわしい場所で、明治10年代中頃~20年代前半にようやく「箱店」という名の仮設小屋が舞台の主流になったに過ぎない。雲右衛門が芸人らしく血気盛んな若き日を過ごした明治20年代はじめ、集客では落語、講談に追いつきまた追い越しつつあった浪花節は、その卑しいとされた出自のゆえに寄席への進出にも四苦八苦していたのだ。

 三段流しと呼ばれた息の長さと圧倒的な声量、独特の節の魅力を認められ、たゆまず芸に工夫を加えて試行錯誤しながらも、雲右衛門の境遇は停滞し、芸人として芽が出る気配はなかった。しかしもうすぐ29歳になろうとする明治35年3月23日、ふらりと弟子入り志願してきた宮崎滔天との出会いによって、破格の人生に踏み出すことになるのである。また、落語や講談と並んで寄席に確かな足場を築きながら、低俗との誹りに甘んじていた浪花節にとっても二人の邂逅が大きな転換点であった。滔天は32歳だったこのとき、義和団の乱に呼応して恵州で2回目の武装蜂起をした孫文を支援していたが失敗に終わり、革命から一時的に身をひいて日本に戻っていたのである。

 滔天は孫文の同志として浮き沈みを共にしながら終生、大陸と日本を往復しながら清朝打倒の中国革命を支援し続けたことでつとに知られるが、浪花節語りをしていたエピソードは、その底が見えないスケールをうかがわせるちょっとしたおまけのような扱いなのが普通である。しかしここには雲右衛門との間に、浪花節の師弟という立場を超えて同志的な交感を持ち、日本一という夢を共に見て奔走する滔天の姿が描かれている。下層の大衆の中から生まれた演芸の生命力と日本一への気概・才気をもつ芸人の魅力に出会い、大陸での革命と変わらない情熱をもって雲右衛門と浪花節の天下取りに入魂したのである。

 足利尊氏の九州下りになぞらえて雲右衛門を励まし、地歩を固めるためにまず門司・博多に連れて行った滔天は、玄洋社の面々、新聞社人脈、寄席の小屋主への紹介、資金調達、宿の手配から今後のブレーンとの引き合わせまでしたうえで、自らも桃中軒牛右衛門として浪花節の舞台に立っている。到底物好きでできることではない。そして地道な地方回りを経て雲右衛門が九州一円での人気を確かなものとしたとき、末永節、小林桃雨ら自分がが結び付けた興行のプロたちに後事を託して、滔天は雲右衛門の元を去るのである。

 九州での声望を得て京阪、東京へと一気に攻め上る雲右衛門の話題膨張はそのまま、浪花節が一世を風靡する上昇気運と軌を一にする。この間に雲右衛門は神戸・舞子の別邸で有栖川宮妃に招かれての「御前公演」、東京本郷座の27日間大入り記録など破竹の勢いを示している。自ら第一人者との評判のみならず、浪花節が下賤な芸であるとの偏見を一掃して、マスメディア・口コミを巻き込み大衆から中・上流階級までに人気を不動のものとしたのである。寄席芸だった浪花節だが、遂に歌舞伎座を埋めるまでになるなど大劇場にも進出し、さながらスタジアムコンサートを初開催したロックスターのようであったことだろう。日露戦争という時流にあって、演目は赤穂の義士伝という武士道鼓吹の一本槍で勝負をかけ、まさに狙いすまして時代の寵児になったのだ。

 歌舞伎座公演の頂点以降、明治という時代が去るとともに雲右衛門が肺を患って没するまでは急坂を転げ落ちるようであった。滔天は寝たきりとなった晩年の師のもとに中国から再び現れて援助を惜しまず、ここでも男気を見せた。流派として目立った勢力を張らなかった桃中軒一門で、雲右衛門の病床を助ける者はごくわずかだったという。