書評:『ジョナサン・アイブ』

『ジョナサン アイブ』
リーアンダー・ケイニー (著)、関美和 (翻訳) 2015年

 アップルの、というより現代が生んだもっともクリエイティブな起業家としてスティーブ・ジョブズのカリスマ性は今もなお健在で、多くのブログ、雑誌記事、書籍がその偉業を語り続けている。しかしアップルもう一人の静かなカリスマ、ジョナサン(ジョニー)・アイブについて書かれたものを目にする機会は意外に少なく、日本語でその業績と足跡をまとまった形で読めるのは今のところ本書が唯一である。そして現在に至るアップルでのジョニーの仕事を俯瞰してみると、私たちがジョブズの創造物、ジョブズのビジョンだと思っていたものの大きな部分が、実はジョニーに属していたのではないかと感じられるのだ。

 著者はジョニーの生い立ちから現在に至る歩みを、ジョニー本人やアップル社への思い入れをやや抑制しながら、丹念にたどっている。ここで描き出された人物は、エキセントリックな傲慢さや異常なほどの自己評価の高さといった、異能のアーティストにありがちな迷惑気質は持ち合わせないものの、紛れもなく天賦の才を授かったクリエーターでありビジョナリーである。

 興味深いのは、現在のアップルを特徴付けるミニマリスト的なデザインの基本志向と、デザインと機能を実現するために必要な製造方法への執着心を、ジョニーは学生時代から一貫して持っていたことである。ロンドンから400キロ離れた北イングランドに在するニューカッスル・ポリテクニック(現在のノーザンブリア大学)でのバウハウス哲学に影響を受けた校風、さらにあらゆるデザイン領域に触れながらものづくりを重視するという教育システムが彼の資質にしっかりとした肉付けを与えることになった。大学時代の作品にも、またアップル入社前のRWGやタンジェリンでの初期の仕事にも、既にこのデザイナーのはっきりとした個性が刻印されている。そして学生時代の有名賞コレクターぶりからも明らかなように、デザイナーとしての才能はプロとしてのキャリアが始まる前から抜きん出ていた。ジョニーは、ジョブズやアップル社の製品が備えているコンセプトに「目を開かれ導かれた」というより、「互いに出会った」というべきなのだ。

 興味深いのはジョブズがアップルに復帰した1997年時点で、ジョニーは既にアップルで5年もの間、複数のプロジェクトで意欲的なデザインを生み出しており、ボスのロバート・ブルーナーを含めたデザイン部門内で高い評価を受けていたこと、そしてあやうくアップルを辞めるところだったということである。ぎりぎりのところでジョニーはジョブズと出会って即座に魅了され、ボンダイブルーの初代iMacに始まりジョブズの死で終わる、伝説とも言える共同作業に乗り出すことになる。

 本書は、マイルストーンとなった多くのプロダクトにジョニー率いるデザインチーム(IDg)がどう取り組んだのか、具体的に記している。そのやり方は、馬鹿げているかも知れないが斬新なアイデアを打ち出してゆくというのではなく、洗練されたコンセプトを立てた上で実現に必要な技術的問題を一つ一つ解決してゆくという地味な積み重ねだ。初代iPod miniのデザインでは前作iPodから引き継いだ素材とデザイン言語とに違和感を覚えて試行錯誤する中で、彼はこう気づく:「ステンレスと違ってアルミならブラストをかけて陽極酸化処理できる。そうすれば独特の質感で染色できるんだ」。さらにそこで立ち止まらず、アルミを押し出し成形したものからボディを削り出すという製造手法に進化を続けてゆくのである。

 「アップルのデザイナーがいわゆる工業デザイン、つまりアイデア、ドローイング、模型作り、ブレインストーミングに使う時間は全体の一割ほどだ。残りの9割は、アイデアをどう実現するかを製造部門と一緒に模索している」

という通り、アップルのプロダクトは製造工程の開発に多くを負っている。その実現に切っても切れない関係を構築しているのが、中国に主な生産拠点をもつ台湾の巨大企業、フォックスコン(鴻海精密工業)だ。本書に見るフォックスコンの役割は下請け工場という姿からは程遠く、ハードウエアメーカーであるアップルのプロダクト価値の根幹を成す、技術開発力をまさに掌握していると言える。

 2017年の時点でサー・ジョニーはアップルのツートップの一人だが、プロダクトに関してはデザインはもちろんハード、ソフトに渡る全権をもつ責任者である。ジョブズ亡き今もアップルはティム・クックという傑出したCEOのもとで魅力的なプロダクトを世に送り出し続け、磐石にも見える。しかしジョニーは20年以上、IDgの同じ中心メンバーと仕事をしてきたという。変化が激烈な業界でこれからもこのチームは輝き続けることが出来るのか。同僚の誰もが最も優れていると認める卓越したデザイナーでありながら、確たるビジョンをもって製造方法開発にも情熱をもち、人間的にも謙虚なリーダーである人物にこれだけの権限を集めた結果、現在時価総額世界一の企業は、間違いなくジョニー以外に替えがきかない経営体制を敷くというリスクも抱え込んでいるのである。

 本書はアップルのプロダクトに隠された秘密に興味があるむきには、ジョブズの評伝を読むよりも多くの納得を与えるかもしれない。優れたビジョンを抱く人は多くいるが、最後まで実行できる人はほんのわずかであり、さらにその方法論が明かされることはほとんどないからだ。デザイナー、ビジネスパーソン、そしてアップルのプロダクトに魅力を感じる全ての人々に一読をおすすめしたい。