書評:『21世紀の貨幣論』

『21世紀の貨幣論』
フェリックス・マーティン(著)、遠藤真美(翻訳) 2014年

 世界銀行を振り出しにシンクタンク、資産運用会社での実務経験を持ち、また資産運用会社1167 Capitalのパートナー創業者として現役でもあるフェリックス・マーティンが、初の著書として世に問うたのが本作である(英語版原著の初出は2013年)。現代のマネーを理解するために著者が取った方法は文学、考古学、歴史学、経済学、金融技術を、マネー思想と理論、実務の面から縦横にリンクさせて論じるというもので、時空間の圧倒的な大スケールと各論の具体性を兼ね備えている。これは稀有な書物である。

 残念ながら誤った先入主を与える邦題がつけられているが、本書では(貨幣ではなく)マネーと社会の関わりを一貫して探求している。貨幣とはマネーシステム全体のごく一部分であって、ソブリンマネー、すなわち主権者が発行し流通させているマネーが物質の形を取ったもの過ぎない。したがって貨幣を軸に本書を読み進めると道に迷うので注意が必要だ。冒頭に取り上げられたヤップ島の石貨、フェイの話からして、巨大な石塊そのもの(ちなみに日比谷公園でフェイの実物を見ることができる)を介した財やサービスの交換がマネーの本質なのではなく、社会が共有する信用と決済のシステムが普遍的なマネー概念であることの例なのである。

 経済学も金融理論も系統立てて学んだことがない私のような門外漢にとって、現在成立しているマネーシステムを起点に、マネーの本質を見通すのはほとんど無理である。後述するように、現在の先進国のマネーは「大和解」以降のマネーシステムで運営されており、概念的には複雑な構成になっているからである。また繰り返し引き起こされる金融危機を回避できなかったことからして、この領域で専門的に学んできた人々にとっても、理解は難しいことなのだろう。

 ではマネーについて人々が信じているが多くは間違っている概念、仮説、思想を検証するのにはどうすれば良いのだろうか。著者は理想社会の思考実験や抽象的な数理モデル分析を否定し、歴史に目を向ける。たとえばマネーが存在しない高度社会はあるのか?ホメロスが叙事詩に描いた、ミケーネ文明以後の古代ギリシャの暗黒時代に、それは実在している。また、国家の威信を背景にしたソブリンマネーが信任を失い国民がノーを突きつけたとき、社会は勝手に代替貨幣を作り出して政府に反乱を起こすのか?2002年のアルゼンチン危機、1990年代初めのソ連崩壊の過程にそれは実際に起こった。このように著者は、マネーという社会技術の痕跡を歴史的な証拠をもとに辿りつつ、底流する思想・概念を要素ごとに丹念に読み解いてゆく。

 マネー技術の歴史を時系列で辿る際に、主権者の権威を背景として発行された貨幣に強く結びついたソブリンマネーと、これに対抗すべく政治的な被支配者の間で立ち上がったプライベートマネー(国際貿易商人の信用に基づいて独自に清算される金融債権、証券)という軸で俯瞰するという本書の構成は明快である。長い間互いに掣肘しあっていた二つのマネーだが、17世紀末のイングランドにおいて時代を画する出来事が起こる。イングランド銀行が通貨発行することを国王が承認し、民間の銀行家が金融技術を提供するという「マネーの大和解」が実現したのである。中央銀行の誕生とともにマネーは、社会における地位を移動する自由と、社会自体の安定という相矛盾する、しかしたまらなく魅力的な約束をした。

 中央銀行という発明は先進国に広まり、民主的な手続きにより選ばれた専門職である銀行家が適切な金融政策を取って通貨の安定をはかり、経済成長を促進すれば、マネーの約束が守られるとされてきた。しかし特に1980年代半ばから、借り入れによる資金調達は法人、個人とも、銀行による融資からクレジット市場に加速度的にシフトしてしまった。マネーの信用創造機能は銀行セクターからいつの間にか金融セクターに取って代わられていたのである。そして金融セクターが際限なく取ったリスクが人々の目から隠され続けた結果、2008年のリーマンショックが起こった。

 「個人が自分のためにお金を増やそうと努力することが、結果として社会全体の発展と利益につながる」という思想はジョン・ロックの貨幣観に源を発し、バーナード・デ・マンデヴィルによって時代精神を表すものとして世間に明らかとなり、アダム・スミスによって高度に理論化された。今日のマネー社会信奉者にとっての金科玉条となったこの認識は世界を塗りつぶしたかに見えたが、一方で抗議する人も実は少数派ではない。リーマンショックにおいて膨大な税金投入により銀行セクター、金融セクターが救済されるのを見せられたいま、資本主義マネーシステムへの不信がかつてないほど高まっているといえるだろう。ただしこのような機運に乗って腰軽にマネーシステム自体を否定するのは危険だ。マネー不信を直接、システムとして導入した社会は歴史上いくつも存在し、あらためて社会実験という博打をしてみるまでもなく結果がわかっているからである。

 ひとつのマネー否定案を実行したのは、古代ギリシャにおいて、野放図なマネー社会と化した民主主義国家アテネと対決していた、全体主義国家スパルタである。スパルタは400年存続した伝統的な社会制度の完成度を誇り、人間関係や共同体にとっての価値を貨幣に置き換えることを拒んだ。スパルタ人による強硬な貨幣・マネー廃止戦略の成功は、一方で暴力支配を受ける下層農民と世襲のエリート階級という、社会階層の救いのない固定化と引き換えだった。

 もうひとつのマネー無力化戦略は、20世紀のソビエト連邦で実行された貨幣・マネーの封じ込めである。いっさいの財やサービスに対し金銭的価格をつけられないようにしてマネーが社会を調整できる範囲を著しく制限したのだ。金銭に置き換えられない価値をマネーから守った代償として、ソ連社会は経済的に持続不可能な非効率に陥り崩壊することになった。ちなみに著者は哲学者マイケル・サンデルによるマネー暴走抑止策を、ソビエト式に分類している。

 著者の示す解決案はマネーの廃止でも封じ込めでもなく、マネーの力を最大限発揮させつつ社会の安定を実現しようとする第三の道であり、方法論としてはナローバンキング構想をベースにしている。その本質は、生活を支えるソブリンマネーの流通と安定が失われるリスクを避けるためには、非常時に税金を投入するという形で国民が最小限のコストを負担し、一方で信用創造を伴うマネーを活用した投資・社会活動は見える形で受益者がそのリスクを全面的に負い、モラルハザードを防ぐというものである。

 専門家でないいち一般人として、テクニカルにこのような構想が実現可能なのかは判断に困るところだが、本書を読んでみれば各国・各人のさまざまな政治・経済的主張の要点がクリアに見えてくる事は請け合える。マネーが好きで仕方がない人にも、嫌いで仕方がない人にも、また中庸を自任する人にも、主義主張にかかわらず是非とも手にとってもらいたい素晴らしい一冊である。