書評:『ハプスブルク帝国』

『ハプスブルク帝国』
岩﨑周一(著) 2017年

ハプスブルク家といって思い出すのは、マリ・アントワネットの出身家ということか、スペイン黄金世紀に君臨したフェリーペ2世か、はたまた天才たちが集い絢爛たる芸術に彩られた19世紀末ウィーンのことだろうか。およそ1000年という長きに渡って広大な領地を支配し、中世・近世・近代にまたがって有力王家として存続した一門というのはヨーロッパにあって随一で、世界史上でも特異な存在といえる。ハプスブルク家が統治した国家と地域は、言うまでもなく現代ヨーロッパへとつながる歴史において主役級のプレイヤーたちである。とはいえ私は、クイズ番組的知識を得るために今さら高校世界史の教科書を暗記し直すような気持ちでこの本を読むわけではない。

欧州連合(EU)による国家主権統合の壮大な試みの中で、最近では国民投票による連合王国の離脱決定、トルコおよびバルカン諸国の加盟問題などもあり、国民国家を超克する連合体への道のりは一直線から程遠いことが誰の目にも明らかになっている。さらにその過程で、そもそも現代ヨーロッパの国境線や国民国家の成り立ち自体が、さほど自明でも安定した歴史を持つわけでもないことがクローズアップされることが増えた。私はクロアチアが、南ウクライナが、オーストリアが、ハンガリーが、あるいはティロールやカタルーニャが独自性を主張するとき、今その住民が何を感じ(政治的に後付された歴史であろうとも)どのような正統性に自らを結び付けて生きているのかを知りたいのである。

本書は物語的な潤色をできる限り避けて構成された、ハプスブルク君主国1000年の通史であるから、「蟻の目」に加えて、もはやヨーロッパ人の潜在意識の底に折りたたまれているような数百年単位の履歴を「鷹の目」で眺めるのを助けてくれる。例えば中世末期のハプスブルク家を見てみれば、現在のオーストリアを本領として新たに固めることに成功しつつも、旧領であったスイスからは影響力を失ってゆく。まだまだ有力な地方領主に過ぎなかったとはいえ、本領の大移動である。また15世紀末から16世紀はじめという近世への転換期に目をやれば、マクシミリアン1世からその孫にあたるカール5世、フェルディナント1世、ラヨシュ2世の代に、本領のオーストリアに加えてネーデルラント、チェコ、ハンガリー、スペイン、ナポリ、シチリア、サルデーニャを含む汎欧的勢力へと大躍進がある。この驚くべき領地拡大は戦略的な婚姻関係により意図的に成し遂げられたと説明されることもあるが、それ自体はどの国がどの時代にもやっている普通の策に過ぎない。この時期のハプスブルク君主国のような巨大勢力が形成されることを周辺諸国が十分警戒し、連帯する中で一瞬開いた窓をつかんだという意味で、僥倖としかいいようがない機会に機敏に適応した結果と言ったほうがよいのである。

ヨーロッパ全域において、横連携した被統治民と君主が、戦いと妥協を繰り返す構図は、およそ12世紀から続いていた。16世紀のスペイン黄金時代に至る以前の時代、ハプスブルク家の地位は近隣の地方領主だけでなく、臣民の代表たる諸身分の同意と協力なしには成り立たないものであった。しかし三十年戦争以降の近世後期以降の絶対王政の時代ですら君主の権力は「絶対的」ではなく、依然として諸身分と議会の力は強かったというのが近年の歴史研究の了解になっている。「強力な王権による集権的統治は、決してスタンダードではなかったのである」。このように身分制議会を経て現在の議会民主制に至る議会統治のDNAはヨーロッパ大陸に深く刻まれており、統治者が入れ替わり時代が変わったところで、ちょっとやそっとのことでは変わらないのが分かる。この点で中央集権国家の長い伝統を持つ東アジアの政治に対するメンタリティとは、鮮やかな対象を成している。

第一次世界大戦を継戦する最中にオーストリア=ハンガリー二重帝国が崩壊した後、ハプスブルク家の人々は自ら復権を画策し、また野心的な政治勢力の御輿に乗ることで、かつての帝国復活を警戒するひとびとにとって長らく監視すべき対象であった。ところが特に1980年代後半から、世界中でハプスブルク君主国、中でもその遺産である文化に対する肯定的な評価と関心が高まってきたのである。

しかし著者は、この再評価に行き過ぎが見られることに警鐘を鳴らしており、歴史学もまたこの美化と単純化の風潮にともすれば流されがちになっているという。「『ハプルブルク神話』というにこやかな仮面の裏には、きわめて多くの秘められた暴力と、克服しがたい対立の溝が隠れているのである」。オーストリア=ハンガリー二重帝国最後の皇太子となったオットー・ハプスブルクが政治的に現実的な危険とみなされなくなるとともに、多民族共存のモデルケースとして彼が理想化して喧伝したハプスブルク君主国の姿を逆に無批判に受け入れる人が増えたのかもしれない。

一般読者に向けて読みやすさに配慮されているとはいえ、あまりにも多くの地域、時代、社会状況をカバーするために、乾いた歴史記述が延々続くと感じられる読者もいることだろう。各自の興味がある時代を中心に範囲を広げながら読み進めるのもよいと思う。著者の静かな心意気を感じる労作である。