書評:『中東から世界が崩れる』

『中東から世界が崩れる』
高橋和夫(著)2016年

 サウジアラビアを震源地に世界が揺れている。本稿執筆時点(2019年1月)では、イスタンブールにあるサウジアラビア総領事館でジャマル・カショギ記者が殺害された事件に、サウジアラビアのムハンマド・ビン・サルマン皇太子(MBS)が関与した疑惑が持たれ、アメリカ、トルコ、EU各国など国家レベルの間で激しい反応を引き起こしているのである。遡ること2年前の2017年には、サウジ国王・皇太子により有力なサウード家王族に対する大規模な粛清が行われ、身分の高い逮捕者が軒並みリヤドのリッツ・カールトンホテルに拘束されたという、ただごとならざるニュースも記憶に新しい。

 また中東においてサウジと敵対する域内大国イランもまた、平穏とは程遠い状態にある。2016年にはサウジはイランと国交断絶している。またアメリカも、2015年に米ロ中英独仏・イラン間で結んだ核合意から2018年に離脱し、この合意により解除されていた経済制裁を再開した。

 いずれも中東のパワーバランスを一変させかねない一大事件であるが、これらのニュースを理解するのに前提となる、日本人にとって分かりにくい中東情勢の見取り図を与えてくれるのが本書である。特に中東の地政学の動因を宗教的なものに過度に求めず、あくまで現世的な権益の争いとして捉えるのが著者の基本姿勢である。

 まず中東の二大地域大国といえばイランとサウジアラビアであり、本書もこの2か国を軸に説明が展開される。中東および近接地域の国を合わせても、著者の言葉でいう「国らしい国」はイラン、トルコ、エジプトの三か国のみである。サウジを含む他の国々は「国もどき」に過ぎず、国民国家の体を成していないのだという。国民国家という国家形態の良し悪しはさておき、サイクス=ピコ秘密協定の遠い呪いは今も中東に諍いと内戦の火種をまき散らし続けており、国もどきは何かのきっかけで内側から不安定になる宿命を抱えている。

 中東の盟主を自負するサウジも内実では、政治的・軍事的に強固な安定を持ち合わせてはいない。政治的にはサルマン国王およびMBSらが石油収入を有力王族、および働かない国民にばらまくことで安定を保ってきた。軍事的には国民の絶対数が足りないところを、アメリカ製兵器の大量購入やパキスタン軍の雇用でかさ増ししてきたため、独自の軍事行動に出る力は本来ないのである。高齢のサルマン国王に代わって権力集中を進めるMBSは、内政において先が見えている石油収入を王族へ分配する体制を一気に破壊して(冒頭の王族粛清事件)投資開発型の経済構造への転換をドラスティックに推し進め、軍事的にはイエメン内戦に身分不相応な介入を続けて勝利が見えない泥沼に足を突っ込んでいる。

 一方でイランはホメイニ革命以来アメリカと鋭く対決するイスラム勢力であり続けてきた中東随一の反米イスラム国家である。ところが歴代アメリカ大統領に比べ外政に特に消極的だったオバマ前大統領が、珍しく粘り強くイランの改革・穏健派と対話を長い時間かけて継続した結果、前述の核合意に至ったのである。イランが反米の旗印を下すことはないが、アメリカと若干でも関係改善することでロシア・中国に完全に依存するのを避けたいという打算がこの2015年の妥協を可能にした。当然サウジ、イスラエルはこの核合意が面白いはずもなく、様々なロビイング活動をアメリカで展開したが、2018年にトランプ大統領が発表した核合意離脱決定に、それらが大いに影響したことは間違いない。アメリカが軍事的に中東から大きく撤退する方針の中で、地域の安定という意味で大きな歯車の逆回転となってしまった。

 域外大国の顔ぶれも大きく変わりつつある局面である。アメリカや欧米はサウジ王政が倒れることにより中東が流動化することを恐れているが、アメリカは中東地域への関与を顕著に弱め、プレイヤーとして影響力が小さくなっている。欧米諸国はシリア内戦などで大規模に発生した難民への対応に国内問題として足を取られ、かつての存在感はもうない。この力の空白に、ロシアと中国がそれぞれの思惑で入り込んで発言力を強めているという構図である。2009年から中国は24時間アラビア語テレビ放送を開始し、これだけで何百というポストが中東専門家に用意されたという。中国の対中東外交は意図的に強化されている。

 著者の見立てでは、イスラーム国が規制秩序を破壊し、また激しい内戦がうち続くシリアとイラクの情勢いかんでは既存の国境線が書き変わり、中東の大再編が始まる可能性がでてくる。このような長期的な流れの中では国家としての内実を備えたイランのプレゼンスは中東で必ずや高まり、それ以外の「国もどき」であるサウジ、UAEといった国々は国民の力が結集できず、今の形で生き残れるかどうかすら危ぶまれるのだという。超長期的には中東はイランのような歴史性をもった国家と、植民地時代以前の諸部族のような状態に細分化されるというような著者の示唆は、不確定要素が多く予測としては根拠が弱いように思われる。しかし中東の混乱状況の下で相対的にイランの重要度が増してゆく、という予測は説得力がある。

 原発の停止以降、エネルギー資源として圧倒的に石油への依存を高めている我が国としては、この一点だけでも無関心ではいられない地域である。中東のニュースが互いに関連したものとして見えるようになる親切なガイドとして、本書は幅広い層におすすめできる。