書評:『満鉄調査部』

『満鉄調査部』
小林英夫(著) 2015年

 傘下に数十の子会社を抱える巨大な民間会社であり、同時に国策企業として大日本帝国の満洲・中国統治政策の要ともなった南満洲鉄道株式会社(満鉄)。その一部門である満鉄調査部は、日本初のシンクタンクともいえる組織として、日本に迫る危機とともに生まれ、成長し、また役目を終えていった。本書は満鉄調査部誕生から終焉までの一部始終を内外の情勢とともに論じた歴史書である。

 ここでは著者の時代区分に従って、満鉄調査部の活動を第I~V期に分けて概観してみよう。日露戦争が終結し、また日清満洲善後条約が締結されると日本は満洲南部を勢力下に収めた。その翌年にあたる1906年末に後藤新平を初代総裁として満鉄が発足、明けて1907年春には早くも調査部が設置されている。この頃の満洲は、北部は依然として帝政ロシアの勢力圏で、満洲情勢は未だ流動的だった。満鉄総裁就任直前まで台湾民政長官として台湾統治の実質トップだった後藤は、調査グループの重要性を知悉していた。その肝煎りで活動を開始した調査部は、対立するロシアの情勢を探るほか、地質・資源調査や工業発展に資するための各種試験を担当することとなった。アカデミックな調査の比重は決して大きいものではなかったのである。しかし第一次~第四次日露協約によって日露間で満洲での縄張りが確定するにつれ、当初の対ロシア緊張はなくなり、調査部の活動は設置から5年少々という短い年月のうちにひとまず収束してゆく。著者が、調査部の全体歴史上、後藤の及ぼした影響は世に言われるほど大きくないと主張する所以である。ここまでが第I期となる。

 調査部活動第II期は1917年に勃発したロシア革命により、急激に立ち上がる。ここからが、後々の世にまで影響を及ぼすことになる満鉄調査部の真の始まりである。北方ではソ連誕生による満洲勢力圏の混乱、陸軍のシベリア出兵もあり、反共の先兵として人員も拡大され、調査・情報収集活動が活発化した。一方で後に満洲事変を画策する関東軍参謀の石原莞爾、板垣征四郎らと、宮崎正義ら一部の満鉄調査部員が人脈を太くしてゆくのもこの時期である。組織として満鉄調査部と関東軍の関わりはまだ深くはない。

 第III期の始まりは関東軍が満洲全土の領有を企図して策謀した、1931年の満洲事変である。満洲国は重工業・軍需産業を国家・官僚経済、軽工業その他を自由競争とした計画経済の色が濃い植民地国家であった。調査部は満洲国建国にあたり「満洲国経済建設綱要」を立案し統制経済による国家運営の大枠を示した。また陸軍省、参謀本部、関東軍、満洲国が合同で具体化した「満洲産業5ヵ年計画」は日満経済ブロックにおける軍事統制経済を規定したが、ここでも石原莞爾と宮崎正義ががっちりと組んで中心的な役割を果たした。調査部が満洲の国家経済マスタープランを描いていた時代である。

 続く第IV期は1937年の日中戦争開戦に始まる。この時期の調査部の活動は中国全土に対象の中心が移り、対国民党軍・共産党軍との戦いに勝利できるかを国際情勢とともに大規模分析した「支那抗戦力調査」が特筆されるプロジェクトである。ここで出された「中国に負けないにせよ、圧倒的な勝利なし」との暗い予測は、調査部が組織として日本の支那派遣軍司令部だけでなく、中国共産党やソ連、コミンテルンからも情報を得られる人脈を得ていたからこそ客観的に出せたものである。このような人的つながりと、軍部の期待に反して日本の戦争継続能力に否定的な調査結果を出し続けたことが、満鉄調査部事件への伏線になってゆく。

 第V期は1942年からである。太平洋戦争開戦前後から、思想統制は一層強化されており、関東憲兵隊は1941年の合作社運動関係者大量検挙あたりから、本格的に満鉄調査部に内偵の網をかけるようになっていたのだ。1942年9月、1943年7月の2度にわたり憲兵隊は反政府運動の疑いありとして合計44名の満鉄調査部員を検挙した。満鉄調査部事件である。これ以降「知の集団」であった満鉄調査部は主要人材を失って実質的に機能不全となり、敗戦による満鉄自体の解散までもはや目立った仕事を残すことなく終焉の時を迎えたのである。

 筆者は本書で特に満鉄調査部事件の顛末を、人物中心のアプローチで丁寧に追いかけているのだが、浮かび上がってくるのは調査部に所属した人たちの思想的なスペクトラムの幅広さである。特に中期以降に入社した部員は学術的なエリートが多いため、満洲にひきつけられた浪人や粗暴な革命家は見当たらないものの、左翼活動で逮捕歴有りの者、計画経済により農民の生活向上を新天地で実現しようとする理想主義者、関東軍との密接な協働によりインテリジェンス活動に従事する者など、国策企業の一部門として本土では考えられないようなごった煮状態の人材がひとつの組織に集結していたのである。

 日本の帝国主義と関東軍の向いている方向が調査部のそれと合致していた日中戦争開始前までは、モザイク状の思想をもつ組織が調査・情報活動の上で力を発揮した。しかし1937年を境に同じ力が逆に、国家権力にとって邪魔になってしまった。満洲国経済運営のプレイヤーとして参加する中で、計画経済への思想的傾斜が多数の部員に共産主義との親和性を必然的に高めた結果、憲兵隊の警戒を誘うことになったとも言えるだろう。

 大戦後に満鉄調査部がどのように遺産を残したのか、代表的な人や組織名を挙げるのは難しい。戦後の超大物を輩出しているとは言えないし、調査部出身者が再集結して目立った組織が作られたわけでもないからである。その人材は大学、シンクタンク、官僚組織など広く各界に散らばり、調査部が抱えていた部員の多様な思想の振れ幅そのままに、それぞれの道に進んでいったのではないだろうか。

 本書は2005年初出の底本に補論を追加し、2015年に文庫版として出版された。