書評:『本当に残酷な中国史』

『本当に残酷な中国史』
麻生川静男(著) 2014年

 司馬光の「資治通鑑」に触れたことがあるという日本人は現代にどれだけいるのだろうか。中国では司馬遷の「史記」、班固の「漢書」と並ぶ史書とされているのにもかかわらず、これが愛読書だという人物にお目にかかったことはない。推測でしかないが「史記」を手に取ったことがある人数のさらに数分の一というところがせいぜいであろう。本書は、新字体漢字での検索を可能にするソフトウェアを組むなど独自の工夫をした上で全巻を通読した著者が、その現代的な意味を読者に問うものである。

 著者は不人気の原因として、膨大な分量(本文330万字は史記の約6倍、さらに読解に欠かせない胡三省の注を加えると600万字にのぼる)と、編年体の形式をとったことによりヒューマンドラマとして読みづらいことの二点を挙げている。加えて日本においては太平洋戦争後に行われた戦前思想否定の結果、皇国史観の基礎を成す水戸藩編纂の「大日本史」が否定的な評価を受けたのも資治通鑑にとってはとんだとばっちりであった。大日本史はその大義名分論を「資治通鑑綱目」(朱熹が資治通鑑の記述に儒教的な倫理観をあてはめて論評した書物で、資治通鑑とは本来別物)に拠っていたからである。

 しかし本書での著者の意図は中国古典の教養としてあらためて資治通鑑を要約・俯瞰しようというのではない。あくまで現代の中国人と向き合い、ビジネスを進め、あるいは政治問題を考察する際の「ケース」として資治通鑑を読もうということだ。

 毛沢東は資治通鑑を愛読し、17回も繰り返し読んだという。人はひとつの書物をこれほどの回数、楽しみだけのために読むものではない。明らかに行動マニュアル、人生の指針として活用したのだ。側近が書き記した毛沢東の発言、行動から裏付けられるように、その政治闘争における術策、はかりごとは資治通鑑を地で行くものだった。中国では三国志の時代に続く3世紀の西晋時代、北方の遊牧騎馬民族が中原に流れ込んだ。それ以降、王道政治を目指す理想の輝きが失われ、基本的な政治力学、社会の仕組み、善悪観が不可逆的に変化して現在まで地続きになっているというのが著者の見立てだ。非常に粗い議論ではあるが、少なくとも毛沢東は遠い昔話としてでなく、リアルな現状認識と権力闘争の手段として資治通鑑を読み、効果をあげたのは間違いない。

 本書の大半を占める「ケース」には、スケールが大きすぎる残虐行為、暴力、桁外れの奢侈と蓄財、利己心と汚い謀略がこれでもかとばかりに収められている。露悪趣味をことさらにさらしたのではなく、10年をかけて読破した資治通鑑が総体として著者に与えた衝撃が正にこれだったのである。そして砂漠のように救いが無い世界の中にあって光る、正義や信念を貫く人々の姿。悪のスケールが大きければこそ善の輝きもまた大きいのが中国であるという。

 私の手元にある「資治通鑑選」(頼惟勤、石川忠久 編、平凡社 中国古典文学大系14)は分量にして全体の約20分の一という抄訳だが、編者が抜粋した箇所がそうさせるのか読後に受ける印象は全く異なり、とても毛沢東の闘争実践マニュアルにはなりそうにもないのである。この意味でも、現代中国に通奏低音のように響く精神の深層を、資治通鑑を通して読者に感じてもらいたいという本書刊行の意図には大いに意味があるだろう。現在、中国史の歴史学者による資治通鑑の日本語全訳は出ておらず、唯一、市井の研究家である徳田隆氏による全訳が進行中という状況である。専門家の奮起を期待したい。

 最後に、本書の書名には大きな問題がある。「本当に残酷なー」という書名や「中国は三千年前から困った人ばかりの国」という帯のコピーは内容について本質的な誤解を生むばかりか、本書を手に取るような読者層に対してマーケティング上も有効でないように思う。この点はかなりもったいない。