書評:『帳簿の世界史』

『帳簿の世界史』
ジェイコブ・ソール(著)、村井章子(翻訳) 2015年

 経営状況を会計の数字からつかむことは、自営業者から、管理職以上のポジションにあるビジネスパーソン、地方自治体や国家の財政を預かる官僚に至るまで、金額の多寡に関わらず欠かすことができない、おなじみの必修科目である。一方で経理部も会計士も税理士も専門家の領域なのだから、できることなら会計は彼らに任せてなるべくタッチしたくない、という人も多くいることだろう。人間の活動にとって会計とは本質的なのか、それとも本来の活動から遠ざける邪魔者なのか。

 東西世界の経済が貨幣によって相互に接続され、人と物が大量に流れるようになってからというもの、人々はときに会計の力を尊んで活用し、またあるときは不都合な財政の闇が暴かれるのを恐れて会計の光をあてないよう努力してきた。本書はルネサンス期以降に経済的な覇権を握った国家の歴史の変遷を、複式簿記の役割から分析した「帳簿から見た欧米700年史」である。まずは国家の軍事力、政体、経済力を、一貫して会計制度という切り口から説明しようとするというだけでも稀少な試みだといえる。

 しかし本書のもうひとつの特徴は、キリスト教世界における利益と負債の精神史をたどろうとする視線にある。原題の”The Reckoning”とは清算、そして罪の償いを意味する。キリスト教信者にとって、世界の終わりに最後の審判を下し、生前の罪を清算するのは神である。富と利益を得る商人は帳簿に現れる黒字を見るたびに、その数字が自分の罪を償うため神に支払うべきものと釣り合っているのか悩んだ。

 単式簿記(預金通帳を思い浮かべれば良い)はシンプルだが、責任ある財務会計を実行することはできない。今日の財務会計制度に直接続く会計技術を本格的に利用し始めたのは、13世紀終わりのイタリア・トスカーナの商人たちであった。彼らは共同出資による貿易を行なっており、各自の持分や利益を計算する必要があったのが、複式簿記という画期的な発明に繋がった。そして複式簿記はフィレンツェ、ジェノヴァ、プラート、ヴェネツィアといった商業都市国家群に瞬く間に広まり、いち商人の経営にとどまらず、共和制の元で都市国家の経営に厳密に導入され、地中海を制覇する強力な武器になったのである。複式簿記による共和国経営は、フィレンツェのコジモ・ディ・メディチの時代に全盛期を迎えたが、その財政規律はわずか一世代にして急速に衰退してしまう。

 コジモ自身もパトロンとして支援した芸術家や学者たちはやがてルネサンス期の思想に強い影響を及ぼす新プラトン主義の流れを作り出す。その貴族的なエリート哲学は商人の現世的で実用的な会計技術や価値観と衝突しはじめ、フィレンツェの実質的な王家と自らをみなしはじめたメディチ家にとって、神聖な学問や文化を会計の風下に立たせることはあり得なかった。コジモの孫にあたるロレンツォ・ディ・メディチの時にはフィレンツェは文化的な栄華を極めたが、メディチ銀行の金庫は空になり、帳簿の監査は骨抜きになっていった。

 これ以降も17世紀オランダ、コルベールが財政を率いたルイ14世時代のフランス、ウォルポールが大英帝国の礎を築いた18世紀前半のイギリスといった、ヨーロッパにおいて強勢を誇った国々において、複式簿記と公明正大な会計は例外なくその威力を繰り返し賞賛され活用された。一方で、絶対君主や立憲君主制における議会を脅かすものとして正しく認識されもしていたため、国家の財政に本格的に定着させることは権力者が許さなかったのである。

 国家経営に透明な財務報告を義務付け、財務官や徴税官が複式簿記を基礎に作成した会計報告を監査する制度を導入できたのは、18世紀末に誕生した人工国家、アメリカ合衆国が初めてであろう。その栄誉に浴すべき二人とは、独立戦争を最高財務責任者として支えたロバート・モリスと、合衆国初代財務長官となったアレクサンダー・ハミルトンである。ルネサンス期の地中海都市国家の市政で行われていたような、借方貸方を釣り合わせ内部監査も行う効率的なシステムが失われてからまた復活するまで、この間実に500年を要したことになる。

 原書が出版された2014年は、2008年に起こった世界金融危機の記憶も未だ生々しい頃である。世界中の金融機関がサブプライムローンをはじめとした信用の裏付けがない巨額の金融商品を抱え、資産を膨らませ合っている時に、なぜ会計監査や格付け機関による査定が全く機能しなかったのかという疑問は、本書の執筆動機のひとつであろう。会計監査制度の不備や金融業を規制する法整備の甘さといったテクニカルな問題のみに目を向けるだけでは、金融システムの不安定さは本質的に解決しない。

・・・ヤン・プロフォーストの『死と守銭奴』は、信仰、倫理、政治、芸術の面から帳簿の大切さを説いている。会計が日常生活から切り離された結果、人々の関心は薄れ、多くを期待しなくなってしまった。かつて社会は、財政に携わる人に対し、会計を社会や文化の一部とみなすように求め、帳簿に並ぶ無味乾燥な数字からさえ、宗教的・文学的意味を読み取っていた。いつか必ず来る清算の日を恐れずに迎えるためには、こうした文化的な高い意識と意志こそを取り戻すべきである。

 著者が暗に理想とするのは、14世紀のジェノヴァ共和国や17世紀のオランダに束の間現れたような、産業、商業と商業の発展には政治・経済的自由と責任、および宗教的寛容が欠かせないとの認識が市民それぞれに浸透している社会である。それを下支えするべき個人の「心ある会計」は、現代日本で教育されているようには到底思われない。