書評:『エピジェネティクス』

『エピジェネティクス』
仲野徹(著) 2014年

 有性生殖の多細胞生物はただ一つの細胞でできている受精卵から発生する。染色体上の遺伝情報はタンパク質をコードしており、異常が起こらない限り細胞分化の過程で変化しない。つまり一個の生物を形作る脳の細胞も骨の細胞も同一の遺伝子を持っているのだが、細胞分裂の際に働きが違う細胞に分化する指令がいつ・どうやって出されているのだろうか。これを解明しようとするのがエピジェネティクスという学問分野である。

 エピジェネティクスは分子遺伝学の中でも最新のトピックに属し、高校の教科書に載せられるほどには、きれいな体系として整理された説明が確立していない領域である。それにもかかわらず、iPS細胞のようにホットな話題を理解するには欠かせず、また「生物はどのようなメカニズムで発生するのか?」という生命現象の素朴な理解にも必要なのである。本書はエピジェネティクスに対して知識欲を持ち、かつたとえ話的な説明では満足できない読者に対して、専門の研究者である著者が、分子レベルの機構解説と研究の現状説明を与えるものである。したがって気楽な科学読み物を期待するむきにはハードルが高すぎるが、科学の真贋というものは結局細部を理解しないと判断できない(特に現在進行形の学問領域はそうである)ので、一般書であってもこの編集方針でよいのだ。

 本書全体を通じての基本的なメッセージは「エピジェネティクスは生命現象にとって明らかに重要な要素だが、『ゲノムDNAによる遺伝』という大きな生命観を覆すようなものではなく、これに修正を加えるくらいに考えたほうがよい」ということである。

 ゲノムでは決定されていないエピジェネティックな状態が、次の世代に遺伝するという現象が実際に存在するという事実は、獲得形質が遺伝するとしたラマルク仮説を歴史の棺桶から蘇らせるように思える。しかしアグーチマウスの毛色や尻尾の形状などごく限られた現象しか見つかっていないこと、エピジェネティック状態の世代間遺伝はメンデルの法則に従うようなはっきりとしたものではないことからも、強力な一般性をもつ原理とは言えないという感覚を、著者は抱いているのであろう。

 これはエピジェネティクス現象を利用した病気の治療法開発にも当てはまる。母親が妊娠しているときに何らかの理由で栄養状態が悪く低体重で生まれた子供は、出生後に栄養状態がよくなっても将来生活習慣病を発症する割合が高くなる、ということが知られている(バーカー仮説)。インスリンは膵臓のβ細胞から分泌されるが、胎児が低栄養状態にさらされるとインスリンの分泌が抑制されるとともにインスリンが機能しにくくなって骨格筋へのグルコース取り込みを抑制し、その結果生存のためには骨格筋より重要な脳にグルコースをまわすことができる。しかし一方でインスリンの作用を抑え、血中グルコース濃度を高く維持するような表現型が何らかのメカニズムで生後もメモリーされていれば、成長するに従い2型糖尿病のリスクが高まることになる。低栄養状態はDNAの突然変異を誘発しないので遺伝子のせいではなく、また長い間この代謝傾向が維持されることから、この「倹約表現型仮説」はエピジェネティック状態で説明できると考えられている。魅力的な説明であるがしかし、同様のストーリーが当てはまりそうな現象は、思ったほど多くはないのである。
 
 現象ごとに地道な検証が必要になりそうなエピジェネティクス分野の研究だが、一気に解析を進める起爆剤になりそうな技術も開発されている。エピジェネティクス現象を正確に理解するためには、特定の遺伝子だけでなく包括的にDNAメチル化状態およびヒストン修飾状態の読み取りができれば圧倒的に有利になる。このように塩基配列によらない遺伝子発現制御をゲノム全体にわたって解析しようというのが、エピゲノム解析である。2007年ごろから普及しだした次世代シーケンサーと呼ばれる機器により並列的に塩基を読み取ることが可能になった。また付随する化学処理を行うことにより、エピゲノム解析のコストとスピードの制約が大幅に取り払われ、これまでにない研究成果が現れてくるだろう。

 センセーショナルな期待は禁物だが、決して停滞しているということではなくむしろ飛躍のときを迎えているエピジェネティクス研究について、今現在の客観的なスナップショットを提供してくれるのが本書の美点である。