書評:『氷川清話』

『氷川清話』
勝海舟(談)、勝部真長(編著) 1972年

 晩年の勝海舟は東京赤坂にある氷川神社脇の自宅で過ごしたが、数名の弟子やファンが勝翁から聞き出した逸話を、吉本襄が編んで「氷川清話」として1898年(明治31年)に出版したところ好評を博した。本書はこれの他に筆記記録された勝の談話、勝部真長による勝海舟伝を加えて、後年再編集したものである。

 頭山満にせよ中江兆民にせよ、彼らが幕末維新の人物を語れば群を抜いた傑物は勝海舟と西郷南洲(隆盛)の両名で、他は格下ということで落ち着いた。では文句無く維新の渦中心に立っていた当事者の勝はどう見ていたか。幕府方の交渉責任者として、というよりも日本の国家をどちらに持ってゆくかという局面での指導者として、勝は西郷のみを国事を託す対手としていたことは本書でも明らかだ。数段落ちて木戸孝允と大久保利通というところである。勝がただひとり、人物を西郷と並べて顕揚した横井小楠は、その言を用いる人を得ず、大事を成すことなく維新後まもなく襲撃されて死んでいる。

 勝の世界認識は「世間は生きている、理屈は死んでいる」の一言に集約される。

世の中のことは、時々刻々変遷窮まりないもので、機来たり機去り、その間実に髪を容れない。こういう世界に処して、万事、小理屈をもって、これに応じようとしても、それはとても及ばない。
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これまで民間に潜んでいた若手も、おいおい天下の実務に当たるようになってきたのは、いかにも結構だが、今の若い人は、どうもあまり才気があって、肝心な胆力というものが欠けているからいけない。
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機運というものは、実に恐るべきものだ。西郷でも、木戸でも、大久保でも、個人としては別に驚くほどの人物でもなかったけれど、彼らは王政維新という機運に乗じてきたから、おれもとうとう閉口したのよ。

 どんなひとりの人物の能力も機運、世の変化や機運の前には大した違いがあるものではない、という基本認識を勝はもっていた。世情から背を向けた学問や理論的に突き詰めた思想主義を振り回してみたところで、社会や人心を動かす妙味がないのである。誠意をもって熟慮した後は一筋に行動あるのみ、というのが勝流だ。

 人物評もすべてこの通り。たとえば藤田東湖などは学問、議論、剣術に優れると評価しながら一等嫌いな手合で、散々に貶している。また西郷と大久保・木戸の天分に優劣がつくのは、西郷は相手の大きさによって大きくも小さくも響いたからだ。変転する世間に大づかみに応えて茫洋としていた西郷に対して、大久保・木戸は有能な実務家だが反応の見通しが簡単だと勝には見えていたのである。勝が人物を採点するときには、いちいち歴史上の面白い場面が登場する。本書には維新後に威張っていた有名政治家たちのみみっちい逸話が一杯で、これを読んだ明治の人々は笑いながら楽しんだろう。

 幕末に大組織を養い、外交問題にも飛び込み、江戸開城後には武家・民衆の収入の手当てまで苦心した経験からか、勝の財政論は現場感覚とマクロな視点がつながっているのが凄い。大奥に倹約してもらうために、逆張りでどしどし贅沢を薦めて、かえって女中たちを恐縮させた話などはほほえましいが、一方で歴史上の通貨政策論なども驚くほど現代風だ。学者は実践の役に立たぬということをしきりに強調しているが、本人は学問に手を抜いていないのだ。

 まず政治の根本は治民の術に先立って金が要る、とは直截な言い様である。時の将軍足利義満と管領細川頼之が明から封冊を受けるという形を作り、体よく金貨の元手と永楽銭を取り込んだ。日本の金貨のはじまりは室町時代であるが、貨幣を流通させて国を富ませるために義満が使った腹芸に、勝は正しく賞賛を送っている。南朝は細川頼之の経済に敗れ滅亡したのだというのも慧眼である。また勝によれば、北条氏が仏法に深く帰依して鎌倉五山を開き、無覚禅師をはじめとする宋の名僧を次々に招いたのも単に信仰心のためだけではない。文化教養人、船大工などの技術者、仏師などのアーティストが文明先進国から渡来する交流事業とともに大量の宋元通宝が輸入されて、銅銭による貨幣経済が鎌倉時代の経済、税法の基礎となった点を鋭く指摘しているのである。

 問わず語りの談論なので話題は精神の鍛え方から人生訓、仕事論、人物評、政治、経済、外交とどこにでも飛んでいくが、どこを取り出しても、古くなって使えない話が無いのには驚く。中国、朝鮮半島、ロシアについての見方など、百数十年前の話をしていながら預言者のように本質を突いており、眼光紙背に徹するとはこのことである。無類の快男児、勝海舟の言葉に耳を傾け、正しい大人になりたいものである。