書評:『リヒテルは語る』

『リヒテルは語る』
ユーリー・ボリソフ(著)、宮澤淳一(翻訳) 2014年

 この本は、題名を見て少しでも気になった人は絶対に読んだ方がいい。

 西洋クラシック音楽を愛する者にとってスヴャトスラフ・リヒテルはあまりにも偉大な存在だ。1960年に鉄のカーテンの向こう側から西側世界に姿を現して以降、数多くの実演と録音により20世紀最大のピアニストの一人との評価は揺ぎない。しかしロングインタビューをほとんど受けないことでも知られた。

 著者であるユーリー・ボリソフは演劇人だが20代の若き折、40歳あまり年上のリヒテルの知遇を得ることになった。本書は2003年初出の単行本を2014年に文庫化するにあたり一章を加えて出版されたのだが、テープ録音から文字に起こされたこの章を除いて、リヒテルが時に著者に練習を聴かせ、ともに歩き回り、また自由に語った様子を著者が記憶から再現したものである。おかげでリヒテルの創作過程を垣間見せる書物が残されることになったのだが、まさしく僥倖という他はない。また特筆すべきは丁寧な注釈で、本書の価値を一層高めるすばらしい仕事である。

 リヒテルを支える創造性の源は、演劇、詩、小説、絵画、映画、建築などあらゆる芸術と音楽の総合にあった。これらの断片が現在の経験、過去の記憶と触発しあいながら巨大なイメージの世界を形作ってゆく。リヒテルはたとえばブラームスのピアノ協奏曲第2番をアポロンの生涯として解釈した詳細なストーリーを披露しているが、一方で曲にリヒャルト・シュトラウス「英雄の生涯」のような標題性を持たせるべきという主張があるとは思われない。膨大な量の作品や体験を引用して曲を議論していながら、聴衆に対して音響によるそのイメージの再現・共有を訴えることばはどこにも見当たらないのである。

 リヒテルの「正しい解釈」は作曲者との魂の会話により到達すべきもので、音楽史学的に正当であるかはほとんど省みられることはない。規範や正統的な解釈を引用することなく、抽象的な時間ー空間ー色彩ー言語ー物語感覚と身体的な五感を自在に織り上げて構成する世界観によって、音楽にフォルムを与えることができたのが彼の天稟であった。実際リヒテルのピアノがどれだけ「模範的演奏」から離れていようとも、そこから奇妙な人工物を見るような違和感を受けることはない。メカニカルな演奏技法発展の面でかなり煮詰まっているピアノという楽器の奏者でありながら、マニエリスム的な音響効果の操作(彼が嫌うホロヴィッツの演奏はその最たるものだったろう)を否定しながら、音楽を新たに誕生させようとしたのだ。

ベートーヴェンは大きな円だ。完全なシンメトリーを持っている。ところがこれを習得するのは難しい。ファリクが教えてくれたよ。円は両手で描くべきだってね(宙で弧を描く)。二つの鍵盤をイメージするのだ。
スクリャービンの円は力ずくで拡げなければならない。卵に似ている。それも蛇の巻きついた卵だ。第五ソナタではこの卵を打ち割るのだ。すると霊魂が外に飛び出す!

 黒澤明は晩年にオムニバス形式の映画「夢」を残した。関連のない一つ一つの短編には、はっきりとしたメッセージを読み取れるような気がするものもあるのだが、やはり分かったようで分からない。分からないのだが、映画というメディアでしか伝達できない圧倒的なイメージの連鎖が聴衆の心に流れ込んでくるという作りになっている。リヒテルは黒澤映画へ淡白な好意を示しているだけなので直接の関係はないが、私にはこの「夢」と共通の感触を音楽で生み出しているようにどうしても思えてしまう。

 私の父は中学生時代、近所の神社の神主に英語を習っていたような東北の田舎出身者だったが、当時の日本人として珍しく若くしてフランスに留学する機会を得て、西洋クラシック音楽に憧れた(我が家における)「第一世代」となった。そして私の少年時代に家にあった唯一のリヒテルのLPレコードは、当時父が無理して買ったであろう、有名なバッハの平均律クラヴィア曲集全曲だったのだ。重厚なジャケットを開いて好きな一枚のディスクを抜き出し、埃を拭って針を落として聴いていた。ザルツブルクのクレスハイム宮で収録されたという残響過多の録音の印象は、私の中学・高校時代のむやみに不安だった記憶とともに今も鮮明で耳馴染みがある。そんな第二世代の私だが、本書でリヒテルが平均律の各曲について解釈している章を30年が過ぎた今になって読み、後年になって買い直したCDと併せて聴いてみても、腑に落ちるわけではない。初めてこのLPを聴いて直面した音楽の謎を追体験しているような感覚に囚われるのみだ。しかし読めば読むほど引き込まれる、異界からの手紙のような書物である。

 最後に、本書に残されたリヒテルの語りから私が真っ先に思い浮かべた録音を紹介しておこう。1978年5月3日にモスクワでライブ録音されたシューベルトのピアノソナタ第18番ト短調D. 894である。地獄の中に天国の嵐が渦を巻く、まさに「聴衆に衝撃を与える」演奏が記録されている。